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日々想うコト

趣味(単車、旅etc・・・)、仕事、時事等々、独り言をつらつらと書き留めておきますか。

世界最速のインディアン

2007.05.28/Mon/18:17:34

 正直、仕事が忙しいのもあるが、普段の生活からバイクが無くなると、不思議と書くことがあまり無くなってしまった。
 というより、書こうという意欲が薄くなってしまって、更新がついつい遠ざかってしまう。

 これじゃ、いけないと思うので、少し気合いを入れていこう。

 バイクネタではこれを入れて3つ(4つ?)仕入れたので、2週間は持つかな?

 第一弾は、バイク映画「世界最速のインディアン」。
こちらが映画「世界最速のインディアン」の公式サイト

 公開が終了して既に数ヶ月経っているので、紹介する時期としては最悪なくらい外しているのだが、DVDが7月末に発売されるということなので、その予習にはなるかな?・・・ならないな、こんな紹介じゃ。(笑)

 とは感じつつ、観る切っ掛けの一つになればと思う。

 映画を見た第一印象、「世の中には凄い男がいるもんだ。」

 正直、何の捻りもない台詞だが、この映画を見てそれを痛切に感じた。

 名優アンソニー・ホプキンス演じるバート・マンローは実在の人物。

 1920年製のインディアン・スカウトを駈り、世界最速に挑んだ男の話である。

 織田信長が好んで待った幸若舞「敦盛」の一節

「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。」

 事実、平均寿命として日本人が50歳を超えたのは僅か40年前の統計からであり、信長が生きた安土桃山時代では、50年を生きたのは長寿であっただろう。

 しかし、このバート・マンロー、ただ者では無い。

 彼が、記録として今も残すのは70を超えてからだ。

 それでも、ただ走らすだけで良ければ、出来るかも知れない。
 しかし、彼はレーサー(パイロットの方が適切か)だけではなく、エンジニアも一人でこなしていた。

 大金持ちであれば、金の力で何とかなるかも知れない。
 しかし、彼は年金生活者であり、金持ちとは対局の存在だった。

 退職者の道楽か?
 彼は、若いときからコツコツと実績を積み上げて来て、花が咲いたのがこの歳なのだ。

 この映画に感銘を受け、原作本「バート・マンロー」も買ってしまった。

 本を読んで更に驚いた。
バートマンロー

 映画に嘘は無い。
 というより、長い人生を2時間で納めるには、これが精一杯だろう。
 だから、当然、映像化されるエピソードは絞られる。

 実際のバートマンローは、もっと凄かった。

 こんなに、何か一つのことに打ち込める人生って、それだけで素晴らしいと素直に思う。

 ちょっと残念なのは、この本はどうやら完売に近いらしい(重版の予定は無いらしい)
 それも、Amazonでは中古本がプレミア付きで売られている。

 流石に「プレミア」付きを買うのは少々納得しかねるので、色々と調べて見たら、紀伊国屋の数店では店頭在庫があるらしい。
 ネットでも購入出来るので、ネットはAmazonしか買わないという方は別だが、是非ともご一読をお勧めする。

 これは、本筋ではないのだが、はっきり言って、タイトルは頂けない。
 インディアンなんてバイクメーカーは、バイクに乗っている人だって多くいないだろう。
 一般の人なら推して知るべきだ。
 大体、メーカーが無くなったのは1953年なのだから当然のことだ。

 そんな状況なのに、こんなタイトルなら、普通、オリンピックでも出て初めて勝ったネィティブアメリカンのヒューマンストーリーか何かだと勘違いするのじゃないか。
 本当にそう思った。

 原題が「THE WORLD'S FASTEST INDIAN」だから、直訳するとその通りなのだが、もう少し何とかならないものだろうか。

 例えば、以下は有名な洋画の原題だが、邦題は想像つくだろうか?

・LOVE IS A MANY-SPLENDORED THING
・SUMMERTIME
・Butch Cassidy and the Sundance Kid

 答えは、上から、「慕情」、「旅情」、「明日に向かって撃て」だ。

 どれも古い映画なので、若い方々は知らないかもしれないが、同年代以上の方は原題は知らなくとも邦題は一度は聞いたことくらいはあるだろう。

 下手な邦題を付けるよりは、直訳の方が良いというのも判るが、ワン・センテンスで全てを表す邦題というのはそれはそれで素晴らしいと思うのだが。

 それも叶わぬのなら、せめて原作本のタイトル「バート・マンロー スピードの神に恋した男 」の方が良かったのではないだろうか。

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それでも僕はやってない

2007.01.31/Wed/04:11:37

 以前、弁護士(多くは民事だが、希に刑事も担当するらしい)の友人と飲みに行った際に、「悪徳弁護士とは聞くが、悪徳検事とか悪徳判事とかは聞かないよな」と言うと、「弁護士も勿論色々いるが、検察官も裁判官も立場が違うだけで似たようなものだよ。」と少々の新聞ネタになった話を織り交ぜながら面白可笑しく裏話を聞かせて貰ったことがある。
 その中の一つに、作品上で語られていたように、判事一人当たりの同時に抱える裁判件数が、札幌当たりでも百数十件もあるので、とても全てにまともに対応出来ておらず、法廷で初めて資料に目を通す裁判官が少なくないなども聞いた記憶があった。
 要は、法曹関係者だからと言って、高尚で信頼の置ける方々ばかりではないということだ。

 さて、「それでも僕はやってない」は、周防正行監督作品ということから、「Shall we ダンス?」や「シコふんじゃった」の様に、ちょっとコミカルな仕上がりかとの懸念を多少は持っていたが、作品紹介のチラシや監督へのインタビューなどを聞いて、相当シリアスに冤罪に正面から取り組んだ映画のようだったので、とても期待して観に行ってきた。

 粗筋は、「ある青年が身に覚えの無い痴漢に間違えられ、駅事務所に連れて行かれたところから始まり、正しい主張をすればするほど睨まれ、最後には裁判になって行く」という展開で、例え、ネタバレ覚悟で詳細に書いても数行で終わるような内容であったが・・・

 さて、裁判映画としては、「12人の怒れる男(1957/アメリカ)」が有名だ。
 この作品は、ある黒人少年が起こしたと思われる事件に対して、12人の陪審員が様々な理由で11人が有罪と下すが、たった1人(ヘンリーフォンダ)が、その判断に疑問を持ち、11人に問いかけていく話である。
 1957年作と古いモノクロ作品で、シーンのほぼ100%が陪審員控え室のみの映像であるが、これ程次の展開が読めずにどきどきした作品はこれまでなく、裁判映画という括りではなくて、これまで見てきた映画の中でBest5に入る作品だ。
 1987年にリメイクされており(残念ながらこちらは見ていない)、三谷幸喜氏がこの映画に多大な影響を受け、「12人の優しい日本人」というもし、日本に陪審員制度があったならという話を、コミカルに見せながらも芯が通っている作品の脚本を書いている。

 今回の「それでも僕はやってない」は、それに勝るとも劣らないとはちょっと書きすぎだが、今の日本の裁判制度の問題点を、誰にも判りやすく浮き彫りしたという点で相当の高得点を与えたい佳作だ。
 また以前から、事あるごとに書いている日本的な嫌らしさもしっかり描かれているのも好印象だ。

 主演の加瀬亮は「硫黄島からの手紙」で知った俳優だが、あまりにも理不尽な状況に置かれた青年の心理を上手く演じきっており、脇を固める役所広司や瀬戸朝香、小日向文世なども安定感抜群で、脚本の素晴らしさをしっかりと引き出している。

 派手な演出などは一切無い、大変硬派な出来ではあるが、今の日本が抱える問題の一端を感じることの出来る希有な作品の一つだ。
 こういう作品こそ、少しでも多くの人に観ていただきたいと思う。

 さて、日本では平成21年5月までに裁判員制度がスタートすることが決まっている。

 この背景には司法不信(冤罪事件が少なくないのではないか、量刑が不当なのではないか)の解消と、事案によっては結審までに多くの時間が掛かっているという問題を解決したいということがある。

 今回の「それでも僕はやってない」は、このうち、起訴された刑事事案の99.9%が有罪になるという現実を基に、冤罪が作られていく過程を緻密に練り上げた作品だったが、この裁判員制度は冤罪解消に役立つのだろうか?

 まず、冤罪は何故起こるのかを考えてみたい。

 本来は警察段階によって、確実な事案のみを送致出来れば良いのだが、検挙率という亡霊に縛られざるを得ない彼らは、取りあえず疑わしきを逮捕し送致してしまう。
 但し、警察段階で疑わしきは送致するというのは、裁判で有罪無罪を決定する建前上、ある程度は許容せざるを得ないものだと思う。

 問題はここからだ。
 警察から検察官送致された被疑者を検察で不起訴とすると、結果的に検察は警察の過ちを指摘することになる
 同様、検察から論告求刑された被告を無罪に処すということは、裁判所は検察の過ちを指摘することに繋がる。

 本来は、警察官、検察官、裁判官も人間である以上、過ちがあって当然なのだが、組織への信頼感(裏には個人への評価)という言葉で、対面的にはそれを簡単に認める訳にはいかない。
 その為には、赤の他人の一人や二人が例え冤罪になったとしても、仲間内で気まずくなって、今後の仕事に差し支えるよりは、余程マシということだろう。

 冤罪とは、警察-検察-裁判所という、一見、独立しながらも、密接に関わらざるを得ない国家権力組織同士の対面維持がその根幹にあるのだ。
 このような仕組みが強固に構築されている法曹業界に自浄作用による解決は期待出来ないだろう。

 続いて、裁判員制度について少し考えてみたい。

 まず、米国で導入されている陪審員制では、判事は有罪か無罪かの決定には関与出来ず、判事は裁判自体の適切な進行と有罪時の量刑の決定を負う。有罪無罪の判断は陪審員12名の一致が原則だ。

 これと比較して、日本で導入を予定している裁判員制とは、民間人は判事と一緒に判断を下す制度で、裁判官3名と裁判員6名で構成し、少なくとも裁判官1名を含む過半数(5名)が一致すると結審となる。

 3名の裁判官が同一見解となった場合を仮定すると、民間からは残り2名が賛同すれば結審するわけだ。

 自ら法曹の世界に入ることを希望した上で、最難関と言われる司法試験に合格し、司法修習生として司法研修所で専門教育を受け、その後も判事としてキャリアを積み上げてきたいわゆる裁きのプロと、選挙人名簿から「くじ」で選ばれただけの素人が、互角の論戦になるのだろうか。

 恐らくは、判事からの専門用語連発の詭弁を聞かされ、「何となく説得力ありそうだ」、「さっさと終わらせて解放されたい」という心理が働き、数名がそちらに流れてしまう構図は容易に想像が付く。

 そして、判事への内部的な評価基準は、これまでの如何に数多くを裁いたかから、如何に裁判員を説得したかに変わっていくのだろうか。

 もう一つ、刑事事件においても、被告が無罪を主張している事案を中心に裁判員制度を運用するのであればまだ話は分かるのだが、採用されるのは、殺人事件など数種の重大事件に対してであって、今回の作品にあるような痴漢事件などは対象とはならない。

 作品中の台詞にもあるが、刑事事件の多くは、被疑者が公訴事実を認めたところから開始されるので、犯罪を犯したのか否かを争うのではなく、量刑を争うことになるのだが、この様な裁判は、私は重大犯罪であろうがなかろうが、民間人が出る幕はなく、量刑こそプロに任せるのが妥当だろうと思うのだ。

 冤罪の争点とは、量刑の軽重ではなく有罪なのか無罪なのかなのだから、事案の大小ではなく、この公訴事実の罪状認否で争う事案こそ、民間人のバランス感覚が必要なのだと思うのだが。

 さらにもう一つ、裁判員制度の対象は刑事事件のみに限定され、民事は対象とはならない。

 民事を外した理由は色々調べてもその経緯ははっきりとしないが、諸外国との国益に関わる裁判(自国有利の判決が出やすい)で米国に遠慮したとか、労働関係裁判(これも弱者有利の判決が出やすい)などを恐れる経済界に遠慮したからという説があるようだ。
 一個人を裁く刑事事件などよりも、弱者と強者の闘いになり易いこういった分野にも庶民感覚、一般常識が役立つケースだと思うのだが。

 確かに、今の猟奇的な殺人事件など、重大な刑事事件は、ワイドショー的な庶民の興味を得やすいのは確かだ。
 このような事件の裁判にのみ市民が参加する意味とは何か。

 即、結論となるが、この「市民が市民を裁く」という考え方は、旧東独などの旧東欧諸国で採用されていた司法モデルに近い。

 この様な一個人の犯罪は、実のところ、裁判に誰が参加しようが、逮捕され拘束された時点において、その者が釈放でもされない限り、一般市民の生活には何の影響も無いのだが、この仕組みによって、日々の生活に不満を持っている国民に対してそれなりに有効なガス抜きになったらしい。
 まるで魔女狩りのような発想だ。

 さすが日本、欧米諸国に制度の雰囲気は似せてはいるが、裁判員制度とは、彼等がこの制度を制定した意義を完璧に骨抜きにする全く異なる制度である。
 
 自浄作用も期待できず、新制度も骨抜きであれば、冤罪撲滅には何の効果もないだろう。

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恭賀新年

2007.01.18/Thu/19:17:02

 新年明けましておめでとうございます。

 明けてから早2週間が過ぎようとしているが、仕事もプライベートも忙しくて中々更新することが出来なかった。
 ・・・という言い訳は止めよう。

 普段読んでいるメルマガの一つに
「社長と幹部と社員のカン違い」から目を覚ませ!! 」 発行; 株式会社武蔵野 経営サポート事業本部
 がある。

 つい先頃の発刊で言い訳について触れていて、「言い訳をしても、結果は何も変わらない」と断じ、

言い訳とは、
 ・適当にごまかすことです。できない理由を述べることです。
 ・自己防衛のことです。自分ができないとか無能であるということをアピールしていることに気づいていない人のやることです。
 ・進歩の敵です。
 と切り捨てている。

 正しく、その通りと思う。
 今年は意味のない言い訳はしないように心がけようと思う。

 ちなみに、この会社の社長である小山昇氏には、以前所属していた会でお呼びしお話を伺ったことがあった。
 そのときには、敵味方がはっきり分かれるタイプの方だろうなと感じたが、その考え方には共感出来ることも数多く、大変参考にさせて頂いている。
 ただ、実際に出来ないのは、自分の甘さ、弱さだということもはっきり判らせられるので、自分の無能度合が辛いこともしばしばだ。(だったら、やればと言われそうだが、氏が実践していることを読むと、出来そうで出来ないことが多いものだと痛感する。)

 ・・・閑話休題。

 さて、年末年始だが、奇数年は私、偶数年は妻の実家で年越しをするのが慣習となっている。
 大晦日と元旦を過ごし、2日はもう一方の実家に行くのと、朝一番の映画を妻の妹の3人で観に行くのも慣習だ。

 今年も慣習は普遍で10回目を迎えた。
 最近は、まとまった休みは中々取れないので、この時期に旅行でもと思うのだが、双方の両親が健在なうちは続けることになるのだろう。

 こんなのは面倒だなと少しながら思う反面、何かどんな事でも構わないが、それを続けることで得られるものもあるような気がする。
 こんなことを考えるようになったのは、歳を重ねたこともあるが、昨年、モトグッチと出会ったことも少なくない影響を受けたと思う。

 カタログ性能や見た目を追い求めるのではなく、古くからの技術を長い時間を掛けて大切に磨き上げ、バイクに乗る楽しさとは何かを教えてくれる。
 このバイクとの出会いは、「継続」の重要性を私に感じさせてくれたと思う。

 さて、正月の映画だが、映画は女性2人の意見が強く反映されるが、今年は私の希望が叶い、「硫黄島からの手紙」を観に行った。

 勿論、「父親達の星条旗」も観に行った。
 2本合わせて5時間以上の大作だが、どちらも長いとは感じなかった。

 この映画は、硫黄島の激戦について日米双方から描いた作品で、米国からの視点である「父親達の星条旗」が、硫黄島の闘い自体よりも、主人公3人にスポットを当てた作品なのに比べて、日本からの視点である「硫黄島からの手紙」はその闘い自体に主眼を置いた作りとなっている。
 同じ題材でも、作品の構成がまるで違う。

 それでいて、それぞれを単独で観ても成立しながら、2本見ると奥行きが出るという、昨今のクリント・イーストウッド氏の監督としての力量が十二分に発揮された良作だと思う。

 惜しむらくは、米軍総兵力25万(直接兵力は7万だが、艦船の乗員や、航空兵力などを含めると25万人の動員だったとの事)対、日本軍2万のボリューム感が乏しかったことか。
 劇中で1000人全滅などの台詞はあるのだが、作品的には、米軍数百人に対して、日本軍百数十人といった小規模戦闘の感覚だ。そこだけが本当に惜しい。

 硫黄島の激戦(と言うより、太平洋戦争)については、俄ブームになったお陰で多数の書籍が出ているので興味ある方は読んで頂きたいと思うが、改めて硫黄島について史実を探ると、私の持論でもある「太平洋戦争は、米軍の物量に負けたのではなく、上層部(陸軍参謀本部、海軍軍令部は元より、各階級の指揮官の殆どが該当)が無能だったことによって、自滅的に敗北したのだ」という思いを一層強くすることになった。

 尚、硫黄島指揮官の栗林中将は、圧倒的な兵力差による島嶼防衛戦とは斯くあるべきという模範を示した数少ない有能な指揮官であった。
 上陸軍に対し、3万弱もの死傷者という多大な損害を負わせることに成功した事は、単に数字的を見るだけでも賞賛に値する。

 歴史にifは無いが、他の島嶼防衛戦でも、栗林中将のように勝つため(味方の損害を最小限に抑え、敵に最大の損失を与える)には、何をすべきかを真剣に考え、ねばり強く実践する指揮官が多数であったなら、結果として同じ敗戦であったとしても、全く異なる過程を経たのだろうと思う。(それが戦後の日本にとって良かったか否かは別の話だが・・・)

 この辺りの話を始めると長くなるので、いずれの機会に取り上げたいと思う。

 例年、鑑賞後は、今年の映画はどうだったこうだったと偉そうに論評するのだが、今年はお互い暗黙で触れず仕舞い。
 ちなみに私達だけではなく、上映が終わって照明が点いた後、普通は何やらざわめくものだが、誰もが無言で静かに劇場を後にする。
 流石に、ある程度は覚悟していたとは言え、正月から「硫黄島からの手紙」は少々重かった。

 ただ、僅か数十年前に、望んで軍人の道を選んだ訳でもない人々が、赤紙と呼ばれる召集令状一枚でこのような苛烈な戦場で死なねばならなかった。

 この事実は忘れてはいけないのだと改めて思う。

 この結文で終わらせようと思ったが、このままでは、単なる反戦論者と思われるような気がしたので追記したい。

 私は、少なくとも闇雲に戦争反対を声高に叫ぶ人々に全く共感出来ない。
 だからと言って、某国の様に飢えたチンピラのごとくあたり構わず噛みつくのも愚かに過ぎると思うし、チンピラが武器(核)を持ったから、こっちも持つんだといった幼稚な考えにも賛同は出来ない。
 核を持つ持たないの議論については、あらゆる側面から冷静な議論を重ねて検討を行い、自衛手段として必要なのであれば持つべきだし、不必要であれば持たなければよい。それだけの話だと思う。

 要するに、自らは仕掛けることはないが、相手の出方次第では、どの様なカードも躊躇わず切ると相手に思わせるのが肝要だ。
 少なくとも、自ら手足を縛るようなことを平気で発言するのは、相手に利あれども己に利無く、大人の対応とは言えない。

 今、我が国は、3国と領土問題を抱えている。
 ロシアとの北方領土(国後、択捉、歯舞、色丹)、韓国との竹島、中国との尖閣諸島だ。
 この中で、尖閣諸島のみは何とか実行支配をしているが、建設した仮設ヘリポートを中国からの抗議で撤去するなど愚かとしかいえない外交姿勢だ。
 海底資源調査の結果、大きな油田がありそうだと判った途端に、領有権を主張し始めた奴らに対してさえこんな調子なのだから、北方領土や竹島など、されるがままの状態だ。

 少なくとも、我が国の領土が侵略されているという立場が公式なのであれば、まずは外交的解決を求めるのは当然として、埒が開かなければ、実力行使による奪還を通告した上で、実行に移すのが当然の帰結ではないだろうか。

 昨年8月16日のロシア警備艇による銃撃で漁船員が死亡した一件など、自国の領土と主張している海域での事件であり、単に違法操業などと自虐的な話で終わらせてよい話ではない。
 軍とは、国民の生命、財産を守る為に存在しているのであり、このような事態に役に立たない軍などに何の意味があるのだろうか?
 ちなみに、自衛隊は軍ではないという意見もあるが、一旦英語に訳してから日本語に戻してみるが良い。

 ちなみに、これが防衛省の公式HPの英語版だ。
http://www.mod.go.jp/e/index_.htm
 こちらが、英国国防軍のHPだ。
http://www.mod.uk/defenceinternet/home

 MOD(Ministry of Defense)という表記に一字の違いもないことが判るだろう。

 話が逸れたついでだが、誰が見ても多数の戦闘艦船、戦闘機、MBT(主力戦車)など、世界中で軍組織でしか有していないものを持ちながら、軍では無いなどと平気な顔をして言うから、世界中から嘘つき呼ばわりされた挙げ句、おもちゃの軍隊と嘲笑されるのだ。

 この国は勝っても負けても本当にロクな事が無い。
 勝てば驕り高ぶり、負ければ何十年も自虐の底から這い上がることすら出来ない。

 何処から得た話か失念してしまったが、「いじめられっ子と特質として、力(武力)も無く、頭(文化)も悪く、それでいて金だけある奴がターゲットになる。これは、日本そのものだろう。」というのがあった。

 ここで言う文化とは、単に歴史・文化の意ではなく、世界の範となる自立した考え方を有しているという意味だ。

 この国は、いつになれば、いじめられっ子から脱却出来るのだろうか。

 年初から気分が悪めの書き出しになってしまったが、何を言っても自分が日本人であることには変わりないのだから、自らが正しいと思える主張を、Blogを始め様々な機会で話することによって、各々がこういった問題を正面から考えられる機会の一助になれば良いと真に思う。

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