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趣味(単車、旅etc・・・)、仕事、時事等々、独り言をつらつらと書き留めておきますか。

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それでも僕はやってない

2007.01.31/Wed/04:11:37

 以前、弁護士(多くは民事だが、希に刑事も担当するらしい)の友人と飲みに行った際に、「悪徳弁護士とは聞くが、悪徳検事とか悪徳判事とかは聞かないよな」と言うと、「弁護士も勿論色々いるが、検察官も裁判官も立場が違うだけで似たようなものだよ。」と少々の新聞ネタになった話を織り交ぜながら面白可笑しく裏話を聞かせて貰ったことがある。
 その中の一つに、作品上で語られていたように、判事一人当たりの同時に抱える裁判件数が、札幌当たりでも百数十件もあるので、とても全てにまともに対応出来ておらず、法廷で初めて資料に目を通す裁判官が少なくないなども聞いた記憶があった。
 要は、法曹関係者だからと言って、高尚で信頼の置ける方々ばかりではないということだ。

 さて、「それでも僕はやってない」は、周防正行監督作品ということから、「Shall we ダンス?」や「シコふんじゃった」の様に、ちょっとコミカルな仕上がりかとの懸念を多少は持っていたが、作品紹介のチラシや監督へのインタビューなどを聞いて、相当シリアスに冤罪に正面から取り組んだ映画のようだったので、とても期待して観に行ってきた。

 粗筋は、「ある青年が身に覚えの無い痴漢に間違えられ、駅事務所に連れて行かれたところから始まり、正しい主張をすればするほど睨まれ、最後には裁判になって行く」という展開で、例え、ネタバレ覚悟で詳細に書いても数行で終わるような内容であったが・・・

 さて、裁判映画としては、「12人の怒れる男(1957/アメリカ)」が有名だ。
 この作品は、ある黒人少年が起こしたと思われる事件に対して、12人の陪審員が様々な理由で11人が有罪と下すが、たった1人(ヘンリーフォンダ)が、その判断に疑問を持ち、11人に問いかけていく話である。
 1957年作と古いモノクロ作品で、シーンのほぼ100%が陪審員控え室のみの映像であるが、これ程次の展開が読めずにどきどきした作品はこれまでなく、裁判映画という括りではなくて、これまで見てきた映画の中でBest5に入る作品だ。
 1987年にリメイクされており(残念ながらこちらは見ていない)、三谷幸喜氏がこの映画に多大な影響を受け、「12人の優しい日本人」というもし、日本に陪審員制度があったならという話を、コミカルに見せながらも芯が通っている作品の脚本を書いている。

 今回の「それでも僕はやってない」は、それに勝るとも劣らないとはちょっと書きすぎだが、今の日本の裁判制度の問題点を、誰にも判りやすく浮き彫りしたという点で相当の高得点を与えたい佳作だ。
 また以前から、事あるごとに書いている日本的な嫌らしさもしっかり描かれているのも好印象だ。

 主演の加瀬亮は「硫黄島からの手紙」で知った俳優だが、あまりにも理不尽な状況に置かれた青年の心理を上手く演じきっており、脇を固める役所広司や瀬戸朝香、小日向文世なども安定感抜群で、脚本の素晴らしさをしっかりと引き出している。

 派手な演出などは一切無い、大変硬派な出来ではあるが、今の日本が抱える問題の一端を感じることの出来る希有な作品の一つだ。
 こういう作品こそ、少しでも多くの人に観ていただきたいと思う。

 さて、日本では平成21年5月までに裁判員制度がスタートすることが決まっている。

 この背景には司法不信(冤罪事件が少なくないのではないか、量刑が不当なのではないか)の解消と、事案によっては結審までに多くの時間が掛かっているという問題を解決したいということがある。

 今回の「それでも僕はやってない」は、このうち、起訴された刑事事案の99.9%が有罪になるという現実を基に、冤罪が作られていく過程を緻密に練り上げた作品だったが、この裁判員制度は冤罪解消に役立つのだろうか?

 まず、冤罪は何故起こるのかを考えてみたい。

 本来は警察段階によって、確実な事案のみを送致出来れば良いのだが、検挙率という亡霊に縛られざるを得ない彼らは、取りあえず疑わしきを逮捕し送致してしまう。
 但し、警察段階で疑わしきは送致するというのは、裁判で有罪無罪を決定する建前上、ある程度は許容せざるを得ないものだと思う。

 問題はここからだ。
 警察から検察官送致された被疑者を検察で不起訴とすると、結果的に検察は警察の過ちを指摘することになる
 同様、検察から論告求刑された被告を無罪に処すということは、裁判所は検察の過ちを指摘することに繋がる。

 本来は、警察官、検察官、裁判官も人間である以上、過ちがあって当然なのだが、組織への信頼感(裏には個人への評価)という言葉で、対面的にはそれを簡単に認める訳にはいかない。
 その為には、赤の他人の一人や二人が例え冤罪になったとしても、仲間内で気まずくなって、今後の仕事に差し支えるよりは、余程マシということだろう。

 冤罪とは、警察-検察-裁判所という、一見、独立しながらも、密接に関わらざるを得ない国家権力組織同士の対面維持がその根幹にあるのだ。
 このような仕組みが強固に構築されている法曹業界に自浄作用による解決は期待出来ないだろう。

 続いて、裁判員制度について少し考えてみたい。

 まず、米国で導入されている陪審員制では、判事は有罪か無罪かの決定には関与出来ず、判事は裁判自体の適切な進行と有罪時の量刑の決定を負う。有罪無罪の判断は陪審員12名の一致が原則だ。

 これと比較して、日本で導入を予定している裁判員制とは、民間人は判事と一緒に判断を下す制度で、裁判官3名と裁判員6名で構成し、少なくとも裁判官1名を含む過半数(5名)が一致すると結審となる。

 3名の裁判官が同一見解となった場合を仮定すると、民間からは残り2名が賛同すれば結審するわけだ。

 自ら法曹の世界に入ることを希望した上で、最難関と言われる司法試験に合格し、司法修習生として司法研修所で専門教育を受け、その後も判事としてキャリアを積み上げてきたいわゆる裁きのプロと、選挙人名簿から「くじ」で選ばれただけの素人が、互角の論戦になるのだろうか。

 恐らくは、判事からの専門用語連発の詭弁を聞かされ、「何となく説得力ありそうだ」、「さっさと終わらせて解放されたい」という心理が働き、数名がそちらに流れてしまう構図は容易に想像が付く。

 そして、判事への内部的な評価基準は、これまでの如何に数多くを裁いたかから、如何に裁判員を説得したかに変わっていくのだろうか。

 もう一つ、刑事事件においても、被告が無罪を主張している事案を中心に裁判員制度を運用するのであればまだ話は分かるのだが、採用されるのは、殺人事件など数種の重大事件に対してであって、今回の作品にあるような痴漢事件などは対象とはならない。

 作品中の台詞にもあるが、刑事事件の多くは、被疑者が公訴事実を認めたところから開始されるので、犯罪を犯したのか否かを争うのではなく、量刑を争うことになるのだが、この様な裁判は、私は重大犯罪であろうがなかろうが、民間人が出る幕はなく、量刑こそプロに任せるのが妥当だろうと思うのだ。

 冤罪の争点とは、量刑の軽重ではなく有罪なのか無罪なのかなのだから、事案の大小ではなく、この公訴事実の罪状認否で争う事案こそ、民間人のバランス感覚が必要なのだと思うのだが。

 さらにもう一つ、裁判員制度の対象は刑事事件のみに限定され、民事は対象とはならない。

 民事を外した理由は色々調べてもその経緯ははっきりとしないが、諸外国との国益に関わる裁判(自国有利の判決が出やすい)で米国に遠慮したとか、労働関係裁判(これも弱者有利の判決が出やすい)などを恐れる経済界に遠慮したからという説があるようだ。
 一個人を裁く刑事事件などよりも、弱者と強者の闘いになり易いこういった分野にも庶民感覚、一般常識が役立つケースだと思うのだが。

 確かに、今の猟奇的な殺人事件など、重大な刑事事件は、ワイドショー的な庶民の興味を得やすいのは確かだ。
 このような事件の裁判にのみ市民が参加する意味とは何か。

 即、結論となるが、この「市民が市民を裁く」という考え方は、旧東独などの旧東欧諸国で採用されていた司法モデルに近い。

 この様な一個人の犯罪は、実のところ、裁判に誰が参加しようが、逮捕され拘束された時点において、その者が釈放でもされない限り、一般市民の生活には何の影響も無いのだが、この仕組みによって、日々の生活に不満を持っている国民に対してそれなりに有効なガス抜きになったらしい。
 まるで魔女狩りのような発想だ。

 さすが日本、欧米諸国に制度の雰囲気は似せてはいるが、裁判員制度とは、彼等がこの制度を制定した意義を完璧に骨抜きにする全く異なる制度である。
 
 自浄作用も期待できず、新制度も骨抜きであれば、冤罪撲滅には何の効果もないだろう。

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公的機関のあり方

2007.01.29/Mon/21:08:24

 先の「APAと不二家」を書かせて頂いた後に、「千葉県のR100GSパリダカ」氏よりコメントを頂いた。
 ありがとうございます。

 一つは行きつけのAUFWINDについて。

 道内ではそれなりに名の通ったお店だとは知っていたが、道外の方にも知られたお店だとは思わなかった。
 考えてみれば、AUFがメインに扱っているBMWは、ツーリングで真価を発揮するバイクだし、ツーリングと言えば聖地とも言われる北海道だろうから、BMWで上陸してくるツアラーには知られた頼れるショップなのだろう。納得。


 さて、もう一つが食の安全についてだ。

 文の中で、役所の検査について書かれているが、正しくその通りだと思う。
 私は氏とは業界は異なるので、食品業界については詳しくないが、恐らくどの業界においても役所とはそのようなものだろう。

 それは、日本の役所が最も重視しているのが、規制や検査などではなく、許認可権のみだからだ。
 規制も重視していると異を唱える方もいるかと思うが、私は、単に欧米での実施内容を見て、許認可権益に発展しそうなものを優先的に導入しているようにしか見えない。
 これは、真の意味で規制を定めることに注力しているとは言えないだろうと思う。

 さて、この許認可権だが、与えられないと当該事業を営むことが出来ず、かと言って、与えられた側の違反が判明したとしても当該企業の許認可取り消しのみで、基本的に与えた役所側の責は一切問われないという、言い換えれば「責任や義務など一切無しに、生殺与奪の権力のみを与えられているという役所に取って最高に都合が良い制度だ。

 以前、規制緩和などという言葉が流行ったが、私は、必要な規制は緩和すべきではないし、新しい産業が勃興し、新しい化学物質が絶え間なく生み出される現在、まだまだ規制すべき分野などは次々沢山あると思っている。

 緩和すべきは、規制ではなく、許認可制度そのものなのだ。

 元々、役所という組織自体、専門性が無い故に、申請される内容が実態に即しているのか否か、それが正しいのか否かを判断する能力は無いに等しい。
 従って、許認可を与える判断条件とは、書類が整っていることを意味しているに過ぎず、許可を与えるに要する時間(ビジネス上はこちらも大切な要件なのだが)については、それが意図的であれ恣意的であれ、担当者のさじ加減一つだ。

 こんな許認可に、どれだけの意味があるというのだろうか?

 私は、公的機関が行うべきは大変大枠な言い方になるが、以下の2点だろうと考えている。

1,論理的且つ、公正な遵守すべき基準の設定
2,設定された基準の遵守状況の監視並びに、違反時の徹底した検査

 要は、意味のある規制の設定と遵守だけだ。

 ルールが定まった以上、規制される側は遵守すべく取り組んでいくことを求められる。
 不正を犯した場合には、これまでの様に許認可剥奪など画一的に裁くのではなく、発生状況の調査・分析にこそ大きなコストを割り割いて、何故、発生したのか、再発防止には何が有効かなどを徹底的に検証した上で、違反事由の軽重や社会への影響度等によっては、経営トップまで含めた関係者への刑事罰や、当該企業に実ダメージがあるような金銭的処罰で対応するのが良いと思うのだが。

 特に、事の善悪は承知の上で、利益重視の果てに招いたような不正に対しては、トップの実刑は勿論、当該企業を即精算しても賄えないような金銭的ペナルティを課すのも有りだと思う。(いわゆる懲罰的制裁の一種だが、米国のように、一個人(と守銭奴弁護士)による言いがかりの果ての訴え得は認めないのは当然だ。)

 然し、今でも直接的な懲罰はないにしろ、業務上何らかの不祥事を起こした企業に対して、不買運動やイメージダウンによって、実質的に解体に追い込まれたケースは少なくない。
 だが、その企業に対して許認可を下したこと自体が問われて、役人が訴追されたなどという話は聞いたことが無い。

 繰り返すが、規制は間違いなくあるべきだが、許認可とは規制の遵守に対して効果的だから存在しているのではなく、役人の地位や既得権の保全(もちろん天下り先の確保も含む)のみの為に存在していることをもっと認識すべきだ。

 ちなみに、規制緩和の語源は「Deregulation」と言われているが、この単語の意味に緩和といったニュアンスは無い。
 中辞典で引くと「統制撤廃」とある。
 統制と規制、撤廃と緩和、統制とは目的であり、規制とは手段である。
 撤廃とは無くすことが前提であり、緩和とはあることが前提である。
 統制という語句をそのまま残しておくと、これは目的を意味するために、次には具体的な手段に対する議論になりかねない。
 これは、許認可という<手段>がクローズアップされる可能性が俄然出てくるが、既に<規制>という言葉に変えているだけ、手段に焦点が当たった以上、同じレベルの許認可に目が行く可能性は少なくなる。
 撤廃と緩和は言うまでもない。

 訳し方一つ変えただけで、本質をここまで見事に変える。
 役人とは本当に小狡い頭は働くものだとつくづく思う。

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APAと不二家

2007.01.26/Fri/19:35:53

 ここ数日、APAホテルの耐震偽装と不二家の消費期限切れのニュースが数多く報道されている。

 1/26日現在、両社のホームページを見てみると、不二家のトップページは「お詫びとお知らせ」に差し変わっており、APAはアクセスが集中して見られないようだ。

 仕事柄、出張がとても多いので、出張先で何処のホテルに泊まるかというのは、個人的にはとても重要な問題だ。
 そんな中でAPAホテルは、気に入っているビジネスホテルグループの筆頭だった。

 低価格な分、部屋やバスルームが狭いのは仕方が無い。
 だが、ベットは他のビジネスホテルよりずっと上等で大きめなものを使っている。
 枕や布団などの寝具も同様だ。
 また、インターネットや冷蔵庫などの設備も充実している。
 物の配置も狭い部屋を無駄なく効率的に使っている感じで好感が持てる。
 チェックインする時のサインを名前部分が領収書の複写にしてフロントの省力化を図ったり、色々なメーカーと提携して、ある時はリポビタンDなどのドリンクを無料にするなどサービスを実施していた。
 不要だと思うのは、ちょっとしたホテルにある聖書のように、必ずテーブルに設置してある社長の本くらいなものだ。

 APAグループは急成長した企業だが、出張者が宿泊施設に何を求めているかが良く判っている経営だったと思う。
 ホテルに求めるものは人それぞれだが、私は仕事での宿泊は豪華な調度品も要らないし、不必要な広さも要らない。
 欲しいのは、今日の疲れをしっかり取れる寝心地と大浴場の設備、それに、上限が定められている宿泊費以内で収まる料金だろう。

 これが、比較的高いレベルで供給出来たから利用者も増え、急成長に繋がったのだと思う。

 今回の件は、承知の上の話だったのか、寝耳に水の話だったのかは今後の調査に依るのだろうが、もし、後者だったとすれば私は利用者で有り続けたいと思う。

 大変だと思うが頑張って欲しい。

 これとは、まるで逆の感情を持ったのは不二家だ。

 当初は、「消費期限または賞味期限を過ぎた原料の使用」が発覚したと報道されていた時点には、今の時代、無駄を無くして、効率のみを追い求められる中で、悪いとは知りつつも、大丈夫そうな材料を廃棄する(損失を出す)ということは、上からは評価を考えると中々出来ることでなく、故に起こってしまった不幸な出来事だったのだろう。
 決して誉められる話ではないが、規定は規定として現場の実態をしっかりと把握した上で、規定を見直し、しっかりと実施出来る体制になれば、雪印の一件と違って早期に立ち直れるだろうし、そうなって欲しいと比較的温情を持って考えていた。

 不二家は、レストランなどにはあまり行ったことがないが、LOOKチョコレートなどはこの歳になってもついつい買ってしまう好きなお菓子の一つであったので、そういった意味でも好意的に見ていたのだと思う。

 然し、不二家では食中毒の原因となる菌が検査で陽性となっても、例えば黄色ブドウ球菌については、「製品1g当たり1000個超」、大腸菌群については「1万個超」で、初めて回収を要するとマニュアル化されていたとの事。

 もちろん、国の規定では、どちらの菌も発見されれば販売してはいけないとなっている。

 加えて、一般細菌数の社内基準も、国の基準の10倍も緩く設定してしたことが判明したとの事。

 文書化までして行っていたということは、現場の判断云々でなく、企業そのものが承知で行った犯罪ではないか。

 これが全て事実としたならば・・・・

 不二家のホームページでの「お詫びとお知らせ」には、「食品企業として弊社の社内規定が守られず、品質管理体制が不十分であったこと等が原因であり~」と堂々と書いてある。

 随分と笑わしてくれる。

 その社内規定とやらが、食品会社のモラルから逸脱していたのではないのか。

 それに、この文章からは、行間に管理側(経営陣)は規定を定めていたが、現場が遵守しなかったのでこのような事件が起きたと言いたい匂いがプンプンする。

 正直、不二家のブランドには愛着があったが、こんな企業は存在価値は無い。

 フランチャイズで頑張ってきたお店がかわいそうという意見もあると思うが、文書化されていたとすれば、回収に関しての規定は当然知っている訳で、同罪と言っても過言でないだろう。

 不二家に残されたのは、一日も早く潰れて貰って、このような企業の末路がどうなるのかという教訓を世に示すこと。
 そして、表舞台から退場するのが、残された唯一の使命ではないか。

 真にそう思う。

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保守パーツ

2007.01.25/Thu/11:17:24

 髭は細く疎らなので、どのメーカーの電気カミソリを使っても大差は無いのだが、使っているうちにカミソリが発する独特の匂いがどうも苦手なので、使う度に自動洗浄してくれるBRAUNの7680というアルコール洗浄システムの電気カミソリを以前から使っている。
BRAUN7680

 買ってからもう3年以上は使っていると思うが、先日、外刃に穴が空いたので、替えの外刃を買いに近所の大手電気店に行くことにした。
外刃

 BRAUNのコーナーに行くと、最新式は超音波で震える機能が付いていて、デザインも一段と洗練されている。
 どんな分野でも、技術というものは進歩しているのだなと感心しつつ、替刃コーナーに行き対応表を見ながら商品を取ると、今まで使っていた刃の網の形状と明らかに違う。

 型式を見直しても間違いないので、若干の不安を抱えつつ購入することにして、自宅に帰って取り付けると何の問題もなく交換出来た。
 使ってみると、細くて疎らながら癖が強めの髭がこれまでより剃れる感じがした。

 ちょっと気になったので、BRAUNのホームページで調べてみると、この替刃は「マルチパターン網刃」という名称で、4種類×5方向20パターンの網目になって、以前のスクエアな網刃より逃さず剃れるとのことだった。
網目


 メーカーのホームページで、交換部品を特に宣伝している訳ではないのだが、どうやらBRAUNというメーカーは、良いものが出来ると、既に生産中止している製品の保守パーツにも、その新しい技術を投入するらしい。

 そう言えば、アウフヴィントの岡村社長と話をした時に、「BMWが凄いと思うのは、生産してから例え30年も経つバイクでも、使用に不可欠なパーツはメーカーから必ず入手出来る。それも、生産終了時にストックしたパーツが出てくるだけではなく、その時代には無かった新技術を用いた互換パーツが供給されることだ。これは、過去に生産した殆どのバイクの保守パーツを計画的に生産し続けるということで、この姿勢は素晴らしいと思う。」という話を聞いたことがある。

 ちなみに、BMWもBRAUNもドイツのメーカーだ。
 片や日本の製品はというと、私の知る範囲ではこういった話を聞いた事がない。

 逆に、もう5年近く前の話だが、購入後3、4年程度の松下製のビデオデッキのリモコンが壊れて、保証も切れていたので新品を注文したのだが、同一品は既にメーカーにも無く、デザインは異なるが機能は同じというリモコンがあるとの説明を受け、それを購入したのだが、当時、良く使っていたGコード予約関連の機能に違いがあり、上手く動作せず閉口した経験がある。

 保守部品とは所詮このようなものだという諦めに似た感もあったのだが、今回の様に、たかが髭剃りの外刃ごときを、きちんとケアしているメーカーが存在していることを知ると、やはり物作りをするということは、こうではならないという気持ちをより一層強くした。

 日本のモノ作りも、買い換え需要を最重点に追い求めるのではなく、使い続けることを支援する考え方にシフトするべきだろう。
 この方がよほど環境に優しいだろうし、このような姿勢は、顧客も必ず伝わってそれがブランドへの信頼感に繋がり、結果的には長期間に渡ってメーカーに利益をもたらすと思うのだが。

 私も、もし今の電気カミソリが壊れてしまって買い換えを検討する場合には、余程のことが無い限りBRAUNを選択すると思う。

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日本はなぜ敗れるのか -敗因21ヶ条-

2007.01.22/Mon/04:08:33

 書籍の第三弾だ。
 これまでは車本だったが、今回は毛色が全く違う本を紹介したい。
日本はなぜ敗れるのか

 日本はなぜ敗れるのか -敗因21ヶ条- 故、山本七平:作

 ここ数年、年100冊以上は優に読破していると思うが、その中で、自分の思考に最も大きな影響を与えた本の一冊がこれだ。

 実は、恥ずかしながら本書を読むまで山本七平氏という作家を存じていなかった。

 当然、本書も事前知識があって指名買いをしたのではなく、出張中の空港にて、何気に本屋に立ち寄った際に、何故「敗れた」のではなく、「敗れる」という表現なのだろうと、題にちょっと引っかかりがあって手に取っただけの、大した期待もせずに買った本だった。

 さて、肝心の内容だが、心が痛いの一言に尽きる。

 先に書いた正月2日に観た「硫黄島の手紙」も痛かったが、こちらは、最低限ではあるものの組織戦闘の体を成していたのに比べ、小松氏が戦中に見聞きした戦争は既にその体を成していない。
 特に、バシー海峡のくだりは、読むに堪えない痛さだった。

 日本における太平洋戦争とは、敵国に勝つことが目的ではなく、東条英機を頂点とした戦争指導をする立場の面々が、如何に己の面子を保つことが目的であったことが良く判る。
 必然、面子を何よりも優先することは、軍政を司る指導者層のみならず、参謀本部、軍令部の軍令組織から、総軍、聯合艦隊司令部の実働組織に渡り、将軍、士官、下士官の各々の階級に応じて求められたのだから、実戦面での勝利など覚束く訳などない。

 そんな唾棄すべき目的の為に、死なねばならなかった人々が軍、民間合わせて300万人もいたかと思えば、服部卓四郎、辻政信の様に、現場のげの字も知らないような作戦を立案し、多くの将兵を死地に行かせるだけ行かせながら、戦後はGHQに上手く取り入った人物もいれば、フィリピンで司令官として特攻を指揮しながらも戦局が厳しくなった途端、台湾の温泉に療養として逃げた冨永恭次や、インパールの悲劇として多くの将兵を死地に追いやった牟田口廉也など、無駄に兵を数多く殺した将軍にも、GHQの裁判を逃れ余生を全うしたものもいる。
 彼らは、度が過ぎた為に名が知られているが、その取り巻きなど、名が知られていないだけで戦後ものうのうの生き残った小悪党は山のようにいたことだろう。

 増してや、カーティス・ルメイという、批准されなかったとは言え、事実上の国際法と認識されていたハーグ空戦規則に明らかに違反する非戦闘員への無差別爆撃を指揮した人物、言い換えれば、日本人を一番殺したと言っても過言ではない人物に対して、戦後に勲一等旭日章を授与(自衛隊への貢献が理由)するなど、この国の指導者層は本当に何を考えているのか理解に苦しむ。
 ちなみに、無差別爆撃というと、軍事施設も民間も区別しない攻撃と捉えがちであるが、B29から投下された爆弾は、M69集束焼夷弾と呼ばれる平均的な日本家屋を焼き払うのに最適化された兵器だった。
東京大空襲は下町の町工場などを主目的ではなく、明らかに一般民間人を焼き殺すことを狙ったものだ。
 よって、無差別という言葉は綺麗に過ぎる。もっと、違った表現が適当だと思う。
 然し、こういう時の日本語は本当に嫌らしい。終戦記念日って何?、敗戦記念日だろうとか、援助交際?ただの売春だろう。フリーター?定職無しか無職だろうとか。
 以前のBlogで触れた自衛隊もそうだが、表現を美麗に飾ることによって実態を隠蔽しようとする嫌いが多すぎる。
 受ける印象や意味が実態に近い表現になるように、言葉はもっと留意すべきだと私は思う。

 脱線ついでだが、以前、ドイツに旅行に行った時、ブルツブルグという街に立ち寄った。
 この街の観光名所の一つにレジデンツ(RESIDENZ)という世界遺産に登録されている宮殿がある。
レジデンツ

 まず、宮殿に入ると最初に大きなブルツブルグ市街全景の模型が目に入る。
 その後、美術品など色々見物しながら2階へ昇ると、一番奥に何故か一階にあったのと同じような模型が展示されていた。

 近づくにつれて、何となく模型の色の雰囲気が違うなと思いつつ側まで来ると、一階にあった模型と同じサイズ、同じレイアウトながら「第二次世界大戦に米軍により無差別爆撃された後のブルツブルグ市街」と簡素にドイツ語で書かれたプレートと、爆撃で破壊尽くされ、黒と灰色に染められたブルツブルグの廃墟がそこにあった。

 ナチスの戦争責任は今でも強く反省の意を示すドイツでも、このような行いに対しては、心の底では赦してはいないのだという気持ちが痛切に伝わってきた。

 ある意味、これが普通の感性なのだと思う。

 一般国民を兵に駆り立て、死ねという命令を数多く発した者ほど戦後生き残って天寿を全うし、挙げ句、残った8万とも10万とも言われる女子供を含む普通の人々を焼き殺した敵国の将軍を勲一等に賞するなどどう考えてもまともではない。

 戦争の目的は勝つことというが、実は己がどれだけ勝ったと思っても、そのこと自体には全く意味が無い。
 真の戦争の目的とは、武力を含めたあらゆる手段を用いて、敵国の継戦意志を裁ち切り終結させることに過ぎない。

 その終結時において、自国にどれだけ有利な条件で終わらせられるか否かが、いわゆる勝ち負けの尺度なのだ。
 もちろん、条件が少なくなればなるほど有利度が高まる。
 当然、究極は無条件である。

 戦争という行為の是非はともかく、始めた以上は、この「どうすれば敵の継戦意志を裁ち切れるか」が、あらゆる活動の大前提になるはずなのだが、大戦時の日本はそうではなかったことがこの本を読めばよく分かる。

 加えて、戦争中は、どの国にも捕虜収容所は出来るが、その中の自国民同士で揉め事を起こすのは日本人だけだったなど聞くと、本当に愚かな国民性だと思うと共に、私にもそのDNAが引き継がれているかと思うと本当に情けない。

 本書は戦争を題材にしているので、現代には役に立たないように思われるかもしれないが、自らにも多少は身に覚えのあるこういった面子や建前などの情けない欲を、単に否定するのではなく正面から正しく向き合った上で、理性で押さえ込まなくてはならないことを改めて認識させて頂いた。

 この本を読んだ後、俄然、山本七平氏に興味を持ち、代表的な10冊程度をアマゾンでまとめ買いをしてしまった。
 まず最初に「空気の研究」を読み始めたのだが、決して難解ではないのだが、筆がくどいと言うか、何とも頭に入ってきにくい文体で、残念ながら完読せずに放ってしまった状態である。
 こんな経験は西部邁氏の「戦争論」以来だ。(でも、西部氏は好きな評論家の一人だ。)

 本書は山本七平作ではあるが、元は小松真一氏という米軍の捕虜になった方が書いた日記を、氏の死後に小松氏の妻が遺物整理の中から見つけ、出版することになった「虜人日記」という本をベースに、山本氏がコメントを付けていくという内容であり、良い意味で、山本氏のくどさが緩和されていて、氏の著書の中では非常に読みやすいと思う。
 だから、以前に山本氏の著書を読んだが合わなかったという方でも題材に興味があれば是非手に取って欲しい。

 5段階評価: ★★★★☆ (星4.5個)

 PS:
 個人的では5つなのだが、万人にお勧めかと言うと、やはり偏りはあるので1(0.5)引いた。
 ちなみに、本書の冒頭で、田原総一朗をこき下ろしている一節がある。(本書の初出は30年前だから、彼が若い頃の話だ。)
 以前、田原の講演を聴いたことがあるが、あまりの内容の薄さと見識の無さに最も時間の無駄だった講演の一つと記憶しているが、若い頃からその通りの人物であったらしい。人はそう簡単には変わらないのだろう。

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恭賀新年

2007.01.18/Thu/19:17:02

 新年明けましておめでとうございます。

 明けてから早2週間が過ぎようとしているが、仕事もプライベートも忙しくて中々更新することが出来なかった。
 ・・・という言い訳は止めよう。

 普段読んでいるメルマガの一つに
「社長と幹部と社員のカン違い」から目を覚ませ!! 」 発行; 株式会社武蔵野 経営サポート事業本部
 がある。

 つい先頃の発刊で言い訳について触れていて、「言い訳をしても、結果は何も変わらない」と断じ、

言い訳とは、
 ・適当にごまかすことです。できない理由を述べることです。
 ・自己防衛のことです。自分ができないとか無能であるということをアピールしていることに気づいていない人のやることです。
 ・進歩の敵です。
 と切り捨てている。

 正しく、その通りと思う。
 今年は意味のない言い訳はしないように心がけようと思う。

 ちなみに、この会社の社長である小山昇氏には、以前所属していた会でお呼びしお話を伺ったことがあった。
 そのときには、敵味方がはっきり分かれるタイプの方だろうなと感じたが、その考え方には共感出来ることも数多く、大変参考にさせて頂いている。
 ただ、実際に出来ないのは、自分の甘さ、弱さだということもはっきり判らせられるので、自分の無能度合が辛いこともしばしばだ。(だったら、やればと言われそうだが、氏が実践していることを読むと、出来そうで出来ないことが多いものだと痛感する。)

 ・・・閑話休題。

 さて、年末年始だが、奇数年は私、偶数年は妻の実家で年越しをするのが慣習となっている。
 大晦日と元旦を過ごし、2日はもう一方の実家に行くのと、朝一番の映画を妻の妹の3人で観に行くのも慣習だ。

 今年も慣習は普遍で10回目を迎えた。
 最近は、まとまった休みは中々取れないので、この時期に旅行でもと思うのだが、双方の両親が健在なうちは続けることになるのだろう。

 こんなのは面倒だなと少しながら思う反面、何かどんな事でも構わないが、それを続けることで得られるものもあるような気がする。
 こんなことを考えるようになったのは、歳を重ねたこともあるが、昨年、モトグッチと出会ったことも少なくない影響を受けたと思う。

 カタログ性能や見た目を追い求めるのではなく、古くからの技術を長い時間を掛けて大切に磨き上げ、バイクに乗る楽しさとは何かを教えてくれる。
 このバイクとの出会いは、「継続」の重要性を私に感じさせてくれたと思う。

 さて、正月の映画だが、映画は女性2人の意見が強く反映されるが、今年は私の希望が叶い、「硫黄島からの手紙」を観に行った。

 勿論、「父親達の星条旗」も観に行った。
 2本合わせて5時間以上の大作だが、どちらも長いとは感じなかった。

 この映画は、硫黄島の激戦について日米双方から描いた作品で、米国からの視点である「父親達の星条旗」が、硫黄島の闘い自体よりも、主人公3人にスポットを当てた作品なのに比べて、日本からの視点である「硫黄島からの手紙」はその闘い自体に主眼を置いた作りとなっている。
 同じ題材でも、作品の構成がまるで違う。

 それでいて、それぞれを単独で観ても成立しながら、2本見ると奥行きが出るという、昨今のクリント・イーストウッド氏の監督としての力量が十二分に発揮された良作だと思う。

 惜しむらくは、米軍総兵力25万(直接兵力は7万だが、艦船の乗員や、航空兵力などを含めると25万人の動員だったとの事)対、日本軍2万のボリューム感が乏しかったことか。
 劇中で1000人全滅などの台詞はあるのだが、作品的には、米軍数百人に対して、日本軍百数十人といった小規模戦闘の感覚だ。そこだけが本当に惜しい。

 硫黄島の激戦(と言うより、太平洋戦争)については、俄ブームになったお陰で多数の書籍が出ているので興味ある方は読んで頂きたいと思うが、改めて硫黄島について史実を探ると、私の持論でもある「太平洋戦争は、米軍の物量に負けたのではなく、上層部(陸軍参謀本部、海軍軍令部は元より、各階級の指揮官の殆どが該当)が無能だったことによって、自滅的に敗北したのだ」という思いを一層強くすることになった。

 尚、硫黄島指揮官の栗林中将は、圧倒的な兵力差による島嶼防衛戦とは斯くあるべきという模範を示した数少ない有能な指揮官であった。
 上陸軍に対し、3万弱もの死傷者という多大な損害を負わせることに成功した事は、単に数字的を見るだけでも賞賛に値する。

 歴史にifは無いが、他の島嶼防衛戦でも、栗林中将のように勝つため(味方の損害を最小限に抑え、敵に最大の損失を与える)には、何をすべきかを真剣に考え、ねばり強く実践する指揮官が多数であったなら、結果として同じ敗戦であったとしても、全く異なる過程を経たのだろうと思う。(それが戦後の日本にとって良かったか否かは別の話だが・・・)

 この辺りの話を始めると長くなるので、いずれの機会に取り上げたいと思う。

 例年、鑑賞後は、今年の映画はどうだったこうだったと偉そうに論評するのだが、今年はお互い暗黙で触れず仕舞い。
 ちなみに私達だけではなく、上映が終わって照明が点いた後、普通は何やらざわめくものだが、誰もが無言で静かに劇場を後にする。
 流石に、ある程度は覚悟していたとは言え、正月から「硫黄島からの手紙」は少々重かった。

 ただ、僅か数十年前に、望んで軍人の道を選んだ訳でもない人々が、赤紙と呼ばれる召集令状一枚でこのような苛烈な戦場で死なねばならなかった。

 この事実は忘れてはいけないのだと改めて思う。

 この結文で終わらせようと思ったが、このままでは、単なる反戦論者と思われるような気がしたので追記したい。

 私は、少なくとも闇雲に戦争反対を声高に叫ぶ人々に全く共感出来ない。
 だからと言って、某国の様に飢えたチンピラのごとくあたり構わず噛みつくのも愚かに過ぎると思うし、チンピラが武器(核)を持ったから、こっちも持つんだといった幼稚な考えにも賛同は出来ない。
 核を持つ持たないの議論については、あらゆる側面から冷静な議論を重ねて検討を行い、自衛手段として必要なのであれば持つべきだし、不必要であれば持たなければよい。それだけの話だと思う。

 要するに、自らは仕掛けることはないが、相手の出方次第では、どの様なカードも躊躇わず切ると相手に思わせるのが肝要だ。
 少なくとも、自ら手足を縛るようなことを平気で発言するのは、相手に利あれども己に利無く、大人の対応とは言えない。

 今、我が国は、3国と領土問題を抱えている。
 ロシアとの北方領土(国後、択捉、歯舞、色丹)、韓国との竹島、中国との尖閣諸島だ。
 この中で、尖閣諸島のみは何とか実行支配をしているが、建設した仮設ヘリポートを中国からの抗議で撤去するなど愚かとしかいえない外交姿勢だ。
 海底資源調査の結果、大きな油田がありそうだと判った途端に、領有権を主張し始めた奴らに対してさえこんな調子なのだから、北方領土や竹島など、されるがままの状態だ。

 少なくとも、我が国の領土が侵略されているという立場が公式なのであれば、まずは外交的解決を求めるのは当然として、埒が開かなければ、実力行使による奪還を通告した上で、実行に移すのが当然の帰結ではないだろうか。

 昨年8月16日のロシア警備艇による銃撃で漁船員が死亡した一件など、自国の領土と主張している海域での事件であり、単に違法操業などと自虐的な話で終わらせてよい話ではない。
 軍とは、国民の生命、財産を守る為に存在しているのであり、このような事態に役に立たない軍などに何の意味があるのだろうか?
 ちなみに、自衛隊は軍ではないという意見もあるが、一旦英語に訳してから日本語に戻してみるが良い。

 ちなみに、これが防衛省の公式HPの英語版だ。
http://www.mod.go.jp/e/index_.htm
 こちらが、英国国防軍のHPだ。
http://www.mod.uk/defenceinternet/home

 MOD(Ministry of Defense)という表記に一字の違いもないことが判るだろう。

 話が逸れたついでだが、誰が見ても多数の戦闘艦船、戦闘機、MBT(主力戦車)など、世界中で軍組織でしか有していないものを持ちながら、軍では無いなどと平気な顔をして言うから、世界中から嘘つき呼ばわりされた挙げ句、おもちゃの軍隊と嘲笑されるのだ。

 この国は勝っても負けても本当にロクな事が無い。
 勝てば驕り高ぶり、負ければ何十年も自虐の底から這い上がることすら出来ない。

 何処から得た話か失念してしまったが、「いじめられっ子と特質として、力(武力)も無く、頭(文化)も悪く、それでいて金だけある奴がターゲットになる。これは、日本そのものだろう。」というのがあった。

 ここで言う文化とは、単に歴史・文化の意ではなく、世界の範となる自立した考え方を有しているという意味だ。

 この国は、いつになれば、いじめられっ子から脱却出来るのだろうか。

 年初から気分が悪めの書き出しになってしまったが、何を言っても自分が日本人であることには変わりないのだから、自らが正しいと思える主張を、Blogを始め様々な機会で話することによって、各々がこういった問題を正面から考えられる機会の一助になれば良いと真に思う。

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